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戦国武将立花宗茂の居城「柳河城」を訪ねて

2014年05月10日

今回は、福岡で根強いファンのいる、私の尊敬する武将の一人立花宗茂をご紹介します。
彼は、忠義を貫き一生を終えた名将として柳河城(現在の福岡県柳川市)城主として領民に愛されました。

彼は、大友家の家臣として岩屋城(現在の福岡県太宰府市)を守る城主高橋紹運(じょううん)の長男として誕生します。
ときは戦国、信長が勢力を拡大し、中国は毛利家が、九州は薩摩に島津家、肥前の龍造寺家、中津に大友家が凌ぎを削る時代でした。

そして、幼少から優秀な器量を高く評価していた同じ大友家の家臣、立花道雪の養子として立花城(福岡県新宮町)に入り、一人娘の誾千代(ぎんちよ)と後に夫婦となります。
誾千代は一人娘で育てられ、さらに家督を父道雪から幼少時に譲られていたこともあり、男勝りの性格がゆえに夫婦仲は終生よくなかったと言われています。

その後元服を終えた頃には、九州でも戦がますます激しくなり武勇でも頭角を現し始めます。
南から島津が攻め上がり、岩屋城の実父紹運を討ち、不利な局面を迎えた時に救ったのが大坂より駆けつけた秀吉でした。その恩を後世もずっと宗茂は持ち続けるのです。

信長が本能寺の変で討たれた後、秀吉の天下となった時に、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と賞賛され、柳河城の城主として大名に取立てられることになります。
柳河城は大火に見舞われ、現在では当時を思わせるものはほとんど残ってなく、広場と石塔が残っています。



少し見づらいですが、となりには柳川高校のグランドがあって、球児が練習に励んでいます。確か、香月投手がこの高校の出身でしたね。



それから後、恩義を受けた秀吉がこの世を去り、石田三成の西軍と徳川家康の東軍に分かれて関ヶ原で合戦がおこり、秀吉の子秀頼に味方し西軍へついた宗茂は敗軍となり苦難の道を歩むことになります。
この時、忠義より大勢に乗るため家康につくよう正室誾千代は訴えたにもかかわらず宗茂は頑として聞き入れなかったという逸話があります。

戦国の習いにより家康から改易され、城の没収、それから浪人に堕ちて約3年間過ごすことになります。
城を去る時、領民が沿道で涙ながらに見送ったとの記録があるくらい人望が篤い人柄だったようです。
京での浪人時代には正室の誾千代が病により死去します。たとえ不仲の妻といえども晩年は篤い弔いをしています。
柳川市内の良清寺に誾千代は眠っています。
戒名を手がかりに墓石を探しましたが、残念ながら見つかりませんでした。



そして本多忠勝の目にとまり、秀忠の相伴衆(将軍の話し相手)に抜擢されます。
数年前に敵味方に別れ戦った敵将の側近に取り入れられるわけですから、人生はおもしろいものです。
福島の棚倉城主を経て関が原から約20年の後、やっと旧領の柳河に復帰ということになります。
立花宗茂ほど義に生きた武将はいないとまで評された逸材ながら、実子には恵まれませんでした。
ただ、周りの人たちがその生き様をしっかり受け継ぐことができたことも宗茂にとって幸いだったとも言えるのではないでしょうか。

なかなか彼の生き方は真似できないですが、学ぶことは数多く、魅力の尽きない人物であるのも間違いないことでしょう。
久しぶりに柳川の街を歩きましたが、充実した時間を過ごさせていただきました。


参考URL: 柳川城(福岡県柳川市)

( 福岡営業所:小野 )


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