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【 福岡藩祖 黒田官兵衛を訪ねて 】

2014年03月07日

今年の大河ドラマ、「軍師官兵衛」をご覧になっておられますか?
さて今回は、約400年前に福岡の町を整備し、その基礎を作った黒田官兵衛をご紹介いたします。
官兵衛は、信長と秀吉の軍師として、竹中半兵衛と並び二兵衛と称された天才軍略家として後世に名を残しました。
1582年、安土城から京へ出向いた信長を明智光秀が本能寺で討ったのも、毛利攻めを急遽和睦し中国大返しを秀吉にやらせたのも全て官兵衛の計画したものではないかと、憶測されるのも頷けるような気もいたします。
秀吉没後の1600年、西軍の石田三成と東軍の徳川家康が関ヶ原で激突します。この戦いでは、東西のどちらにも味方することなく、彼は独自の路線を進みます(家康と密約があったという説もあります)。
ここで、天下とり最後の賭けにでるのです。


東西の決着に1ヶ月以上の時間がかかると読んだ官兵衛は、九州の平定を進めながら、中国地方を上がっていきます。しかしながら、家康の東軍が勝つことは想定内ではあったものの、まさか1日で決着するとは計算していなかったのです。
天下とりとは、「天の時」「地の利」「人の和」が揃って初めて成しえるものだと言われますが、ここが歴史の醍醐味ではないでしょうか。
戦いの後、家康の長期政権を確信した官兵衛は、天下とりを断念し隠居したのちに「如水」と名を改めます。幾度の戦火により荒廃した福岡の整備に、家督を譲った長政と取り組むことになるのです。
また、官兵衛は律儀者であります。この時代には珍しく側室を持たず生涯「てる」を正室として愛し通しました。ちなみに嫡子長政は、「てる」が15歳で生んでいるのにも驚かされます。
そして、福岡県庁の近く吉塚に、黒田家の菩提寺「宗福寺」があり、「てる」はひたむきに支えた官兵衛に寄り添うように眠っています。


福岡城の築城は1607年。その完成を見ることなく官兵衛は1604年に57歳で京都にて永眠します。完成した本丸からの眺めを観ることができなかったのは、さぞ無念であったことでしょう。


そして、福岡城のおもしろいのは、天守台はあって天守閣がないことです。
(ちなみにここの案内には天守閣が記されてますが、文献によればなかったと記されているものもあります)。家康に気を使ってのことであれば、なんと官兵衛らしい配慮ではないでしょうか。 

福岡に来られる機会があれば、どうぞ官兵衛の魅力に触れてみてください。

参考URL: 福岡市の文化財


( 福岡営業所: 小野 )


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